■世界フィギュアスケート選手権大会 2007 東京(5日目)
女子シングルの最終滑走者は、その年の世界選手権の全ての競技における最終滑走となる。だから、例えば去年の五輪のイリーナ・スルツカヤのプレッシャを思うと、今でも胸が痛む。何しろ、あの時はアイスダンス、ペア、男子シングルとフィギュアスケートの全ての競技でロシアが金メダルを獲れていた状況の中、それこそソルトレイク五輪の時から期待されていた、ただ只管にそれだけを目標にしてきた大会での、最終滑走となったのだから。
女子シングルの最終滑走の選手の精神的な重圧は、筆舌に尽くしがたいものがあるのだろう。
そんな中、安藤美姫という選手は、自国開催の世界選手権で、最も期待された優勝候補は自国にいるという状況の中で、最終滑走者として滑る事になった。
6分間練習からは30分以上経過していた。最大の好敵手が大技を決めた報だって、耳にしないつもりでも聴こえてしまっていただろう。
メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルト。
滑り出した瞬間、不安そうだな――と思った。
良く言えば慎重な滑りだったとも言えるけれど、私には全日本の時よりもずっと辛そうに視えたのだ。
ジャンプ、着氷、スパイラル、ステップ。とにかく息を呑んで見詰めていた。
ただ観ているだけだというのに、彼女がほんのちょっとバランスを崩す度に、こぶしを握り締めてしまうくらい緊張した。
だから、滑り終わった時はとりあえずほっとした。スタンディング・オベーションはしなかった。
ノーミスの滑りという訳ではなかったし、会場は浅田真央の滑走の時ほど沸かなかったと思う。これでスタンディング・オベーションは、ちょっと彼女に失礼だと思ったのだ。
配布されたスターティング・オーダ表に眼を移す。ショートプログラム終了時点の成績は、安藤は67.98。浅田真央は61.32。7点近く差がある。
キス・アンド・クライ――得点待ちブースの映像が出て、場内に拍手が沸く。
安藤の得点が出る。127.11。浅田真央のフリーより低い事しか判らなかった。それでもパーソナルベスト更新。場内再び拍手。そして、沈黙。
全ての視線がオーロラヴィジョンに注がれる。
画面が切り替わる。最終順位が表示される。
一番上に「M.ANDO」の名があった。
瞬間、私は得点も確認せずに歓声を上げて立ち上がっていた。
立ち上がってから初めて、浅田との得点差を確認した。差は1.0もなかった。ギリギリの勝利。
日本の報道は、浅田真央の優勝を願っていただろう。スポンサーも沢山付いていたし、自国開催の世界選手権な上、何しろ彼女は日本のお家芸のトリプルアクセルが跳べる選手だ。お膳立ては完璧だった。
対して安藤は、伝家の宝刀4回転サルコウには挑まなかった。人は嘘吐きだと罵るだろうか。臆病者だと嘲るだろうか。
でも、それは確実に勝ちに行く為に、彼女が下した最良の判断であったと私は信じる。
私は先の秋、キャンベル盃で初めて貴方の演じたシェヘラザードを観て、安藤美姫という名のシェヘラザードは、報道に踊らされる観衆という名のシャハリアールの不信を革められるだろうかと、この場で問うた。今シーズン、貴方の演じるこの千夜一夜物語の結末を愉しみに待つと。
そして現在、あの空気の張り詰めた東京体育館で、安藤美姫という名のシェヘラザードが王の信頼を勝ち取った瞬間、その場に立ち会えた事を感謝したい。
トリノ五輪直前の冬の夜、水を打ったように静まり返った国立代々木競技場の凍て付いた空気が忘れられないように、この東京体育館で、総合順位を表示するオーロラヴィジョンに「M.ANDO」の文字が一番上に表示された刹那の感動もまた、忘れられない記憶になると思う。
あの場に在る事ができて、本当に良かった。
果たして彼女は、これから始まる新たなシーズンに於いて、世界女王として我々の前に君臨する事となる。
安藤美姫選手、これからも応援しています。来季も是非、頑張ってください。
【サイト内関連リンク】
■シェヘラザードは王の殺意を停める事が出来るか。
■ドリームオンアイス2006 日本代表エキシビション